去る5月27日(土) 〈研究・イノベーション学会、映像メディア学会 合同シンポジウム(ZESD共催)〉『プロデューサーシップ、ローカルコンテンツと地方創生』が開催されました。
冒頭、数名の方の基調講演の後、前半は、主にプロデュース理論を中心として、また、後半では実際に事業を展開されている方々による具体例を交えた起業および事業の実践論などがシンポジウム形式で討議され、来場者とも活発な議論が交わされました。
論じられたテーマや実際のプロデュース体験談など、非常に多岐に渡るため、ここでは、その個々の細かい部分について報告は割愛されていただき、一聴講者として全体の感想などを述べさせていただきます。
本シンポジウムのタイトルは『プロデューサーシップ、ローカルコンテンツと地方創生』というテーマです。ここで一つ、気づく点として、なぜ敢えてローカルコンテンツなのか?という点と、なぜ、今、地方創生なのか?という点です。
本シンポジウムのタイトルに沿った形で、桐山登士樹氏の「デザインによる富山県プロデュース」や、「熊本の味を世界に発信」というテーマで発表された重光悦枝氏、中東に日本の食文化と伝統工芸を組み合わるという合わせ技で「日本文化」を売り込むことに成功した石田和靖氏などをはじめとした、様々な事例が紹介されました。また、登壇されたそれぞれの方々の豊富なプロデューサー経験に基づいた「プロデュースとは、そもそも何か」というテーマで活発な討議がなされました。
また、プロデュースそれ自体に関する様々な論点について、以下のような発表をいただきました。
菱沼宏之氏からは、プロジェクトの旗振り役としてのプロデューサーの役割の重要性についてのご説明をいただきました。
原島博氏からは、ご自身の長年の豊富な経験から、プロデューサーとして立つ3つの条件として⑴人的ネットワーク力、⑵未来へのビジョンが描けること、そして⑶人徳の重要性が挙げられました。
島田一雄氏からは、学生を対象とした「衛星設計コンテスト」の企画運営を通じた25年にわたる理系人材教育の実践を通じ、プロデュース活動における夢とロマンの重要性について述べられました。
また、中原新太郎氏からは、日本的組織風土が如何にプロデュース活動の疎外的状況を作り出しているのか、それを打破するための提言などが述べられました。
当団体(ZESDA)の桜庭代表からは、プロデュースにおけるカタリスト(触媒)となる人材の機能について理論的に整理したプレゼンを行い、それについてもパネリストとの活発な討議がなされました。
改めて本ブログ筆者なりに、そもそもなぜ今、「プロデュースの意味」についてこれほどまでに関心が持たれるのか、ということについて以下のように考えてみました。
(1)会社・役所などの組織の中でただ与えられたことを受身的にこなすのではなく、もっとそこで働く個人が主体的かつ前向きにものごとに働きかけて、社会にとって必要とされるような存在となってゆくという姿勢が求められている、ということ。
(2)いままでのように組織に埋没した形で、あるいは、ただ世の流れの中で、惰性的に社会生活、仕事、あるいは市民生活を続けていって良いのか、という疑問と、漠然とした不安の存在。
(3)そのような時代状況になかで、もっと深く何かを主体的に創造すること、その重要なキーワードとして、プロデュースという言葉と、果たしてそれは本当のところ一体何なのか、という答えを探りあてたい、という欲求の高まり。
以上のような理由からではないでしょうか。
今回のシンポジウムでは、長年プロデュースの第一線で活躍されてきた方々のプロデュースとは何か、ということについての経験的実感について鋭い切り口で述べられていたことが印象的でした。
これらのお話をお聴きした中で、本ブログ筆者が気づいた大まかな点としては、以下です。
(1)プロデュースの成功には、プロジェクトを取り巻く様々な条件、例えば、時代状況や、それを実現する上での人材を得ているのかどうかや、何よりもベストのタイミングでそれを行っているのか、などのプロデューサーの実力もさることながら天運などの要素も大きいということ。
(2)ことを為すことにより、結果的に後から振り返ってみた時に、自分がプロデューサーであったことに遅れて気づく、といういこと。つまり或ることを目標にプロデュースをやろう、という目的論ありきでプロデューサーになるのではなく、やってきたことを後から振り返ってみると当該の仕事が恐らくプロデュースといえるものであったことがかなりある、ということ。(丸山茂雄氏のプレゼンより)
(3)プロデュースという行為、あるいはプロデューサーになること、について理論化することはできない。プロデュース行為のあまりにも多くの事柄が、言語化できない暗黙知次元の要素によって構成されており、人は現場での実践を経験することでしかプロデュースの本質を理解できないし、そもそもプロデューサーになることもできない。
主には、以上の3点であろうかと思いました。
大谷由里子氏は、プロデューサーとなること、プロデュースすることとは、生死をかけた次元からくる心の底から湧き上がる熱い情熱と自己の本心にそこはかとなくある核としての欲望を再確認し自覚することが何をおいても第一である、と述べられました。ある種の限界状況に身を置くことをイメージでもって想起して、臨場感の中で真剣に考える、ということが必要であると。その一つの方法として、大谷氏が主催されている志縁塾(次世代のためのプロデューサー養成のための私塾)の授業の一環で、戦跡などを訪れ、そのようなものが感じられる歴史上の生々しい素材に敢えて直接向き合うことで学びを得ている、とのことでした。
そして何よりも、明確な答えを得ることがなかなか困難な対象である「プロデュースとは何か」というテーマについて問い続けることと、ただ考えるだけではなく具体的実践の場面で、自分の可能性と制限性の範囲内ではありますがプロデュースに一歩足を踏み出すこと、試行錯誤を前向きに捉えて挫けることなく積極的に小さなプロデュース経験を積んでいくことが何よりも重要である、ということへの気付きを得ました。まだまだ不確かではありますが、それの地道な積み重ねにより、いずれ大きな機会が訪れた時の成功の肥やしとなると思われました。
恐らく、このような会に参加することにより目には見えない形ではありますが、プロデュースについて少しずつイメージを形成していくことは、今後の大きな収穫得ることが出来るためのキッカケとなります。
そのような意味で、本シンポジウムに参加した意義は大いににあったと思います。また、機会ある毎に、つとめて参加する意義は十分にあると思いました。