Ms. Lucy Birmingham & Dr. David McNeill より 「3.11 Disaster – 6 Years on – Foreign Journalists’ View(3.11 大震災から6年~外国人ジャーナリストの視点~)」 Platform for International Policy Dialogue (PIPD) 第33回セミナー開催のご報告

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NPO法人ZESDAは、「官民恊働ネットワークCrossover」(中央省庁の若手職員を中心とする異業種間ネットワーク)との共催、株式会社クリックネット まなび創生ラボ株式会社自由が丘パブリックリレーションズの協力により、在京の大使館、国際機関や外資系企業の職員、及び市民社会関係者をスピーカーに迎え、国内外の政治・経済・社会問題について英語での議論を通じて理解や問題意識を高める、「Platform for International Policy Dialogue (PIPD)」を開催しています。

3月11日(土)に開催した第33回PIPDセミナーは、Lucy Birmingham氏とDavid McNeill氏のお二人をゲストスピーカーとしてお招きしました。お二人は日本で活躍するジャーナリストで、TIME誌を始めとする様々な雑誌、新聞に記事を掲載されており、東日本大震災の時も多岐にわたる取材活動を展開、いち早く東京電力福島第一原子力発電所を含む東北3県の被災地を訪問し、地震・津波の被害を受けた様々な方々から当時の経験やその後の想いについて丁寧な取材を重ねてきました。そして、2016年12月に、その中から特に6人の方のストーリーをまとめた「雨ニモマケズ: 外国人記者が伝えた東日本大震災」という本を共著で出版されています。

東日本大震災から6年目となるこの日、お二人からは「雨ニモマケズ」で取り上げたストーリーを中心に、「3.11 大震災から6年~外国人ジャーナリストの視点~」をテーマにお話しいただきました。

満員御礼となったセミナーの冒頭では、参加者皆で、震災の犠牲になった方々や被災地の方々に想いを馳せるべく、1分間の黙祷をささげました。そのうえで、スピーカーのお二人は、非常に印象的な写真とともに、共著「雨ニモマケズ」の登場人物である6人の方々を紹介してくださいました。

◆1人目:桜井南相馬市長
まず、McNeill氏から南相馬市長の桜井勝延氏が紹介されました。南相馬市では、人口のほとんどが域外に避難し、お年寄りや貧しくて車が無い人々だけが取り残されました。そして、様々な物資が不足しているにもかかわらず、原発からの距離が近い南相馬市にはメディアが入らず、その窮状が伝えられることはありませんでした。そこで、桜井市長はYouTubeで窮状を訴え、助けを求めることで、この難局を乗り越えました。

◆2人目:相馬市の漁師、イチダさん
McNeill氏は続いて漁師のイチダさんを紹介されました。地震発生直後、多くの漁師は津波の到来を予想し、船で沖に出ようと試みました。なかには間に合わず、港付近で高さを急激に増す波に飲まれて亡くなった方も少なくありません。イチダさんも同じように船に乗り、高さを増した波頭をぎりぎりで乗り越え、危機を逃れました。McNeill氏は、「イチダさんから、震災・津波の体験を語ってもらうのは簡単ではなかった」と振り返ります。何度も断られながらも繰り返し接触したのちに「一度だけなら話す。ただ、一度きりだ」との条件で話をしてくださったそうです。この点について、アイルランド出身のMcNeill氏は、「アイルランド人漁師は自分の経験を何度も繰り返し話したがるし、その話は繰り返す度に誇張されていくものだ」とお話ししながら、日本の漁師との気質の違いを感じた、というお話をされました。

◆3人目:福島第一原発で働くワタナベさん(仮名)
McNeill氏から、3人目として原発で働く20代の若者、ワタナベさん(仮名)が紹介されました。ワタナベさんとは、駐車場で偶然出会ったそうです。ワタナベさんは双葉町で育ち、父親も原発で働いていたそうです。原発事故後、ワタナベさんは既に避難していましたが、使命感から発電所に戻り、危機対応に当たったそうです。しかし、非常に危険な仕事にもかかわらず、賃金は事故直後の最も線量が高かった時期でも月給40万円、その後は30万円程度と、十分とは言えない水準であったことを紹介されました。

◆4人目:夫をなくした陸前高田市のセツコさん
Birmingham氏からは、まず辛い経験を共有してくれる人を探すことは非常に困難であったことが話されました。McNeill氏が紹介した漁師のイチダさんが多くを語りたがらないように、トラウマ的な体験や親族の喪失といった悲しい経験をした方は、そのことについて喜んで話すということは当然ありません。

4人目として紹介されたセツコさんも、夫を津波によって亡くし、また、そのご遺体も中々見つからなかったそうです。震災一週間後、セツコさんはご主人のご遺体と学校の体育館で対面、その体は綺麗に洗われた後、火葬されました。Birmingham氏は、アメリカでは遺族であっても遺体を直接看取ることはなく、そのまま葬ることから、日本との文化の違いを感じた、と話されました。

◆5人目:東松島市の小学校教師、デイビット・チュムレオンラートさん
Birmingham氏は次にテキサス州出身のタイ系アメリカ人の小学校教師、デイビット・チュムレオンラートさんのストーリーを紹介されました。当時、体育館に多くの人々が避難していましたが、津波は体育館に浸水、水位は3メートル以上の高さにある時計のところまで迫ったそうです。避難していた方々は、体育館の2階部分にあるバルコニーにしがみつき、何とか難を逃れたそうです。チュムレオンラートさんは、当時の様子について一度メディアからインタビューを受けたそうですが、珍しい外国人被災者ということもあって、その後取材の依頼が殺到したことから、漁師のイチダさんと同じようにそういった露出を避けるようになったとのことです。しかし、Birmingham氏は知り合いの伝手でチュムレオンラートさんとコンタクトをとることができ、お話を聞くことができたそうです。

◆6人目:荻浜町の18歳(当時)サイトウさん
最後に、Birmingham氏は、震災前に家があった場所に立つサイトウさんの写真を紹介されました。サイトウさんの兄と母は、津波に飲まれながらも、かろうじて脱出し助かりましたが祖父を亡くされたそうです。当時サイトウさんは、東北大学への入学が決まっていましたが、家や財産を無くしたため、無事に進学できるかどうか非常に心配だったそうです。しかし、東北大学から金銭的な支援が得られ、無事に入学することができたそうです。卒業後はロボット研究の道に進み、高齢者の運動をサポートするロボットの研究・開発に取り組まれているそうです。

◆震災時の取材活動について
震災、特に福島第一原発周辺に関する取材活動は、多々困難があったそうです。当時、政府は原発及び周辺地域の取材活動を強く規制していました。また、情報開示も不十分であったように感じた、とのことです。
McNeill氏は外国人記者に取材許可を出さない政府や東電に対して、「放射能の問題は日本だけでなく、世界の問題である」と主張し、取材許可を強く求めたそうです。McNeill氏が事故発生直後に自らサイトを訪問した際に撮影した原発の写真の一つである、ロッカールームに敷き詰められた布団の写真からは、当時、原発作業員の方々がおかれていた厳しい勤務環境を窺い知ることができます。
また、飯舘村で取材したある農家の写真も見せていただきました。震災によって畑や家畜を失い、それまで何代にもわたって築いてきた生活は一瞬にして破壊されてしまいました。McNeill氏は、その農家の主であるショウジさんの話を、涙なしに聞くことはできなかったとのことです。

会場からは、震災時の取材時に意識していること、心に留めていたことについて質問がありました。

お二人は、「一度で全て聞くことはできない。トラウマ的な経験をしている方はその経験について話したがらない。だから何度も足を運び、少しずつお話を聞いていくことが大事だ」、「敬意をもって接することが大切だ」と答えられました。
さらに、Birmingham氏は、避難所ではそれぞれの家族がそれぞれ辛い経験をしているため、多くの被災者はその感情を発露させることができない環境にあり、心理的なサポートが必要であるように見受けられた、と振り返られました。Birmingham氏は、被災者の心理的サポートをする活動をしようと自治体に申し出たところ「外国人の助けはいらない」と断られたとのことです。この経験から、ボランティア活動に対する行政の理解を得ることが大変重要、と感じられたそうです。

◆日本のマスメディアの報道姿勢について
 震災当時の日本のマスメディアの良かった点、悪かった点についても質問がありました。McNeill氏は、NHKの報道は非常に冷静で、危機感や恐怖を徒に煽るものではなかった点が良かったと指摘されました。また、震災発生直後に飛ばしたヘリコプターで上空から撮影した津波の映像は、非常にインパクトがあり、世界中で有名であると評価されました。一方、震災後、日本のマスメディアは原子力の「専門家」を連日招いては、原発の実情や想定されるリスクを語ってもらうというより、視聴者に原発への危機感や疑念をできるだけ抱かせないよう腐心しているように見えたこと、こうした姿勢からは、政府、原発業界、大手マスメディアとの間の利害関係が透けて見え、疑わしいものだったと述べました。たとえば、東電が事故発生から2か月後にようやく「メルトダウンが起こっていた」と発表して初めて、日本の大手メディアがその旨を報道したことを指摘されました。
参加者から出された「ジャーナリストの使命とは?」との質問に対して、お二人は、「事実を伝える」ことに加え、「Monitor the power(権力の監視)」が重要なミッションである、と強調。政府や企業の発表を鵜呑みにして報道するのではなく、疑わしい点があればその点を検証して報道することがメディアの使命であると強く主張されました。

◆震災後に生じた変化について
最後に、ゲストスピーカーのお二人から、参加者に対して「震災後に日本は変化したか?変化したとすればそれはどのようなものか。」という問いかけがなされました。約40人の参加者が、4,5人の小グループをつくって話し合った後、会場全体で内容を共有しました。NPOやボランティアに対する関心の高まり、「自分もいつ死ぬか分からない」との気づきから、本当にやりたい仕事への転職を決意された方のお話など、様々な変化が共有される一方、そうした社会的風潮は一時的なものにとどまっているのではないか、との指摘も出されました。

セミナー終了後、お二人の共著である「雨ニモマケズ: 外国人記者が伝えた東日本大震災」を数量限定で販売していましたが、あっという間に売り切れました。この本は、まさにその日の日経新聞において、東日本大震災のリアルな姿を、冷静に描き出している良著として、紹介されていました。

今回は土曜日の開催ということもあり、セミナー後に懇親会を開き参加者それぞれが、震災や津波を経ての想いや活動について共有し、最後まで会場は盛況でした。

今回も株式会社Click Net 社長の丸山剛様、並びに社員の皆様のご厚意で、セミナー会場として同社が主宰する「まなび創生ラボ」をお貸し頂きました。この場をお借りしてお礼申し上げます。有り難うございました。
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